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いつか好きな奴と映画を見に行ってみたいな


彼は、あたしに聞こえるかどうかというぐらい小さな声で言った。
あたしは聞こえていないふりをして、彼の隣を歩いた。
彼もそのことについて、あたしに何も聞かなかった。
夕暮れの帰り道は、カラスや蜩の鳴き声が聞こえていた。







 

「…ゆ…夕ってば!起きなさい!」


メガホンを耳に当てて、大きな声を出されたように煩かった。
そんな声の持ち主を夕は一人しか知らない。
夕の一つ上の夕陽姉さんである。


「何…?」
「今何時だと思っているの!?」


夕陽は、傍にある目覚ましを取って、夕に見せつけた。
寝ぼけていた顔が一変した。


「もうこんな時間!?何で起こしてくれなかったの!」
「何度も起こしたけど夕が起きなかったの!」
「叩いたりしなきゃ起きないよ!」
「はいはい。あたしはもう行くね」


床に置いていた鞄を持った夕陽はさっさと部屋を出て行った。
夕は飛び起きて、制服に着替え、髪を梳かすと洗面台に向かった。
洗面台に行く途中で、下から夕陽がいってきます、と言って家を出る声と音が聞こえた。
鏡と向き合うと、すぐに目の様子を見た。
目の状態はちゃんと白目のところは白く、瞳は黒かった。
夕は一安心して、歯を磨き、顔を洗って部屋に戻った。
鞄を片手に大きな鏡で最終チェックして、階段を駆け降りた。


「朝ごはんは!?」


リビングから夕陽に負けないぐらい大きな声が聞こえてきた。
姉と母親がこんなに大声を出すというのに夕は声があまり大きくなかった。


「いらない!行ってきます!」


頑張って母親の耳に夕の声が聞こえるように大きな声を出して、返した。
ドアノブに手を掛けて、勢いよく押しあけた。
太陽の眩しい光が一番最初に目に映った。

 

 






何度も利用した駅。
電光掲示板を見てみると、いつも乗っている電車が載っていた。
どうやら間に合ったらしい。
ホッとしながら、たくさんのサラリーマンと学生と一緒に改札口を通った。
万が一を考えて、階段を駆け降り、ホームに立った。


「五辻(いつつじ)、また遅刻?」


イタズラっぽい口調の声が聞こえたような気がした。
夕は周りを見てみたが、夕が知っている人は誰もいなかった。
空耳らしい。
いや、空耳なんだ。
自分に言い聞かせて、夕はいつもの車両の列へと足を進める。
相変わらず、ドアの定位置の前には人が2列になって並んでいた。


「いつ見ても人が多っ!」


また同じ声が聞こえた。
夕はまた周りを見てみるが、やっぱり夕が知っている人は誰もいない。
いるはずがないのにその声の持ち主を探してしまう自分がいた。
恥ずかしさと悲しみが込み上げてきた。
もう“いない人”なのに、どうしてまだいるように思ってしまうんだろうか、わからなかった。


「まもなく、4番ホームに、準急新宿が参ります」


電車が来るアナウンスが、スピーカーから流れる。
階段から下りて来た人々は足早に次から次へと列に並んでいく。
いつも乗る電車が来る。
いつもの時間に。
いつもの場所に。
いつもの風景に。

でも、一つだけいつもと違った。

電車がホームへと入ってくる。




 

そのとき、ある光景が脳裏に浮かんだ。

 




電車の急ブレーキの音と汽笛。
辺りから聞こえる悲鳴や叫び。
人々は、あまりの光景に立ち尽くした。
夕もその一人だった。
まさか、子供が線路に落ちるなんて思ってもいなかったからだ。
原因は友達同士のふざけ合い。
黄色い線の外側で、男の子同士がじゃれあっていて、片方が足を滑らして線路の上に落ちてしまったのだ。
一緒にいた友達は唖然と下を見ていた。
電車が来る。
このままでは子供が危ない。
でも、誰も子供を助けに行こうとする人はいなかった。
夕もそうだった。
助けに行きたくても、足が動かなかった。

だけど、あの人は違った。

鞄を落として、唖然としている子供を黄色線の内側に押して、線路へと飛び降りた。
そして、落ちた子供を抱えてホームへと投げ出した。
投げ出された子供は、近くにいた大人に黄色い線の内側へと運ばれた。
あとは、あの人がホームに逃げてくれば、完璧であった。



けれど、もうすでに電車はあの人の傍まで来ていた…。





 

 


子供達は迎えに来た親に連れられて出て行った。
出て行くとき、お姉ちゃんありがとう、と言ってとびっきりの笑顔を夕に見せた。
大泣きした目が、まだ赤く腫れていた。
夕も子供達に負けないぐらい、とびっきりの笑顔で返した。
部屋から出るとき、子供達の親は夕に深くお辞儀した。
子供達は手を振りながら部屋を出て行くから、夕も手を振って見送った。


「夕」


子供達の姿が見えなくなると、夕陽が夕に声を掛けた。
その途端、夕の頬に雫が零れた。
夕は慌てて手で顔を覆うが、雫は次から次へと零れた。
一滴の雫が、たまたま夕の口の中に流れ込んだ。
雫は綺麗に見えるのに、味はしょっぱかった。
でも、今の夕の気持ちと似ていた。
だんだん身体に力が入らなくなって、夕は崩れ倒れた。
部屋にいた人達は慌てて夕に駆け寄った。
夕自身、泣き崩れるなんて思ってなかったから慌てて立とうとした。
でも、力が上手く入らなかった。
そのとき、ふわっと背中に温かい温もりを感じた。
誰かの腕が胸の前で組まれて、後ろから誰かに抱き締められていることがわかった。
甘く、馴染みのある香水の香りがした。
後ろから抱き締める人は夕陽だと、夕はすぐにわかった。
気持ちがだんだん緩んでいき、夕は夕陽の腕の中に顔を隠した。
夕陽は腕に込める力を強めた。


「大丈夫。もう泣いていいよ」


夕陽が言ったその言葉は聞き覚えがあった。
2年前に夕陽の彼氏が事故で亡くなってしまったときだ。
あのとき、夕陽は今の夕のように泣くことを我慢していた。
それに気付いた夕の母が、夕陽に掛けた言葉と同じ言葉だった。
頭に浮かんできたのは、生きていた頃の彼の姿。
毎朝、夕に話し掛けてはからかったり、面白い話をしたりしてくれた彼。
ちょっと不真面目だけど、優しくて、一緒にいていつも胸が暖かかった。

だけど、彼はもう何処にもいない。
彼の灯はついさっき消えてしまったのだから。


『五辻。今度の土日暇か?』
『暇だけど?』
『じゃあさ。一緒に映画見に行かないか?お前、見たい映画あるんだろ?』
『あるけど、いいの?』
『行く相手がいなくて困っているんだろ?俺もその映画見たいから一緒に行こう』
『…うん。ありがとう』




それが、彼との最後の会話だった。





「…一緒に…映画…行こ…って…言った…のに…!」


塞き止めていた理性が崩れた途端、夕は涙が枯れるまで泣き続けた。
溢れる気持ちは次々と溢れてくる微温湯のように熱く、苦かった。
涙は止まることを知らずに流れていき、夕の顔に一筋の川を作った。
何か殴られたように頭が痛い。
胸の内側から、とても強い力で内側を絞めつけられる感覚がした。
心はこんなに悲しいのに涙は温かかった。

 



 

あれから一週間が経った。

夕は毎日、この駅、このホームで、彼のことを捜している。
いないとわかっていても、何処からか声が聞こえて、無意識に彼を捜してしまう。
彼はまだ生きている、と頭が勝手に思い込んでいる。
いつになればこの呪縛から逃げられるか夕にはわからない。
でも、夕はもう一度彼に会って伝えたいことがあった。
出来れば彼が生きている間に伝えたかった事。
今はもう叶うことのないけれど、もし会えるとしたら伝えたい。



ずっと好きでした。



そのたった一言を伝えたいから夕は今日も彼のことを探す。
今日もホームは人で溢れていた。

 




Fin


 

 

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